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25 2017

ミホノブルボンという馬を知っていますか?常識は敵だ。 スパルタ調教で血統を乗り越えた名馬 名馬回顧3

先日ミホノブルボンが無くなったというニュースがありました。

20140101070126e5f.jpg

JRAによるヒーロー列伝のキャッチコピーは「スパルタの風。」

年齢は28歳天寿を全うしたようです。

現役時代の成績は、8戦7勝 2着1回
G1 朝日杯3歳S 皐月賞 日本ダービー
G2 フジテレビスプリングS 京都新聞杯
JRA賞年度代表馬(1992年)、JRA賞最優秀2歳牡馬(1991年)、JRA賞最優秀3歳牡馬(1992年)
この成績をみれば、名馬だということがわかります。

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しかし母父をみれば、こんな成績が出せる馬だとは、到底思えるはずがないのです。

父マグニテュード 母カツミエコー
マグニチュード2017-02-25

マグニテュードはミルリーフ産駒です。イナリワンもミルリーフ系です。
父マグニテュードと母父シャレーはともにミルジョージとダンディルートという名種牡馬の代用種牡馬としてつけられたものであり、さすがにお世辞にも良血とは言えない。実際、700万円という競走馬としては安値で購買された。
子供には、1985年の桜花賞を制したエルプス。阪神3歳ステークス(現阪神ジュベナイルフィリーズ)を制したコガネタイフウなどがいます。
しかしながら2000や2400の活躍馬はいませんでした。

母カツミエコーは、母カツミエコーも地方競馬の下級条件馬。このカツミエコーの父シャレ-は短距離馬。
カツミエコー2017-02-25 (1)


この血統から生まれた馬が、長距離が持つとはなかなか思えないですよね。

しかし、ミホノブルボンは戸山為夫という調教師によって、その理論の集大成として鍛えられることになったのだ。

戸山調教師は、血統は坂路調教を行う事で、血統を乗り越えられるという独自の理論を持つ調教師であった。
戸山調教師2017-02-25 (5)
ミホノブルボン当歳の時、おっとりしていて走るとは思われていなかったようです。
ミホノブルボン2017-02-25 (2)


その為、ミホノブルボンは2歳ながら坂路調教を1日に2回、3回(現在ではそんなことはしないが)50秒を切るとんでもない調教時計をたたき出すまでに成長しました。

そして、いよいよ新馬戦を迎えることとなった。

出遅れながら上がり33秒1と言う3歳馬離れした脚を炸裂させるという衝撃的な勝利を収める。勝ちタイムも58秒1のコースレコードである。その後塗り替えられたが、やはり尋常ではない。

次の500万条件戦も他の馬を近寄らせもしないで圧勝 府中芝1600
4コーナで先頭に立つと、2着に1.0秒差


そして、朝日杯3歳ステークスでは後のクラシックを見据えるために鞍上の小島騎手が2番手に抑えようとしたら掛かってしまい、最後詰め寄られるものの鼻差の辛勝。このレースではかかり癖が目立った。なのでその後のレースは逃げを打つこととなる。
今と違って、朝日杯は中山芝1600で行われていました。


朝日杯を勝ったものの、距離不安とかかり癖から、スプリングSでは2番人気でした。
中山芝1800です。戸山調教師は鞍上の小島騎手に「自分のレースで行け」と指示しました。
このレースには、天皇賞春2勝、菊花賞を制したライスシャワー
短距離界の王となった。サクラバクシンオーなども出走していました。
ミホノブルボンが迷いなく先行すると、そのまま押し切り2着に7馬身差の圧勝でした。


皐月賞では、先行してそのまま圧勝でした。


距離を乗り越えて、G12勝目でした。

無敗の皐月賞馬となったミホノブルボンは日本ダービーに進みました。
距離の不安からか、戸山調教師は1日に坂路調教を5本もかすなど更にスパルタ調教をほどこし、究極の仕上げを行いました。
小島騎手は、1コーナが勝負だと断言し、逃げ宣言を行いました。
ライスシャワーが4コーナで競りかけてきましたが、直線で突き放し圧勝でした。


そして、全勝でダービーを制した後、菊花賞を目指して、京都新聞杯に出走しました。
このレースもなんなく勝利。
実況担当の杉本アナは、レース中に「菊近し 淀の坂越え ひとり旅」と俳句を詠んだほどです。


無敗の3冠を目指した菊花賞では、2着にやぶれてはしましましたが、距離を考えればよく頑張ったものです。
戸山調教師自身が、菊花賞馬は走りたくないだろうなぁとコメントしてるくらいですから。
キョウエイボーガンの鞍上、松永騎手なにがなんでも逃げる宣言をおこなっていたので、メイズイの菊花賞の二の舞を避けるために小島騎手は控えました。戸山調教師は「なんでボーガンを交わさなかった。ブルボンを信じられなかったのか」と言ったようです。



この後、ミホノブルボンはジャパンカップ出走を目指していたが故障が発生して休養に入った。

ミホノブルボンが休養中の1993年5月29日、戸山師は癌のため61年の生涯を閉じた。くしくもミホノブルボンでのダービー制覇から1年後の、その年のダービーの前日であった。
その後、戸山師が死の直前に執筆した生涯の調教師生活を綴った「鍛えて最強馬をつくる」はその競馬観が一般社会にも通じるところがあるとされて話題を呼び、ベストセラーとなった。

結局、ミホノブルボン自身は休養中に他の故障を発症する等してそのまま故障が癒えずに引退。他の調教師の下では一度もレースをすることなく、古馬や次世代の馬とは対決することなくターフを去った。
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ミホノブルボン 名馬回顧

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