21 2017

2月22日は竹島の日って知ってますか? 日韓両政府の言い分も掲載

2月22日は竹島の日って知ってますか?

第12回「竹島の日」記念式典、竹島・北方領土返還要求運動県民大会の開催についてと島根県のHPにあります。

今年で12回目です。 

私の立場を明確にしておきます。竹島は日本固有の領土です。
大東亜戦争(第二次世界大戦)において、大日本帝国の統治下で戦争を戦った朝鮮は、戦勝国ではありません。ましてやわが国固有の領土に対して、不法占有を行う事は、国際法上違法です。自衛権を行使して断固追い出すべきです。
しかしながら、お互いの言い分を改めて、整理する必要があります。私がまとめてみましたので、ご覧ください。

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竹島12017-02-21 (2)
竹島52017-02-21


まず竹島がどこにあるか、知らない人もいると思うので紹介しましょう。

http://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/index.html

島根県のサイトや外務省にこのようなサイトがあります。
東島(女島),西島(男島)の2つの島とその周辺の数十の小島からなる群島。島根県隠岐の島町に属する。
2. 位置
隠岐諸島の北西約158キロメートル,北緯37度14分,東経131度52分の日本海上に位置している。
3. 面積
総面積は約0.20平方キロメートル。
4. 自然
各島は,海面からそびえ立つ急峻な火山島であり周囲は断崖絶壁をなす。また植生や飲料水に乏しい。
5. 日本人による利用
17世紀初めには,あしかやあわびの漁猟の好地として利用した。特にあしか猟は,1900年代初期から本格的に行われるようになった。



大日本帝国政府が、竹島を編入宣言
各種の地図や文献から、日本では、竹島について古くからその存在を認識していたことがわかります。17世紀初めには、日本の町人は幕府の許可を得て、鬱陵島(うつりょうとう)に渡る際、竹島を航路の目印として、またアシカなどの漁獲地として利用していました。遅くとも17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していたと考えられます。
さらに、1900年代初期、島根県の島民から、アシカ猟事業の安定を図る声が高まり、政府は、1905(明治38)年1月、閣議決定で竹島を島根県に編入し、同年2月22日、島根県知事は、この旨を告示しました。

サンフランシスコ平和条約においても竹島は明確に日本の領土として扱われています
竹島22017-02-21 (3)

戦後、1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約では、日本は朝鮮の独立を承認するとともに、放棄すべき地域に「済州島(さいしゅうとう)、巨文島(きょぶんとう)、鬱陵島(うつりょうとう)を含む朝鮮」が規定され、竹島を日本が放棄すべき地域に含めませんでした。
これに先立つ同年7月、韓国は米国に対し、「日本が放棄すべき地域に竹島を加えて欲しい」と要求しましたが、米政府は、8月にラスク国務次官補発の書簡で、竹島は朝鮮の領土として扱われたことはなく、また、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない旨を回答し、韓国側の主張を明確に否定しました。
このように、竹島は、歴史的にも国際法上も明らかに我が国固有の領土です。

竹島が韓国により不法占拠されていることをご存じですか?
竹島32017-02-21 (4)

しかし、1952(昭和27)年以降、韓国は、いわゆる「李承晩(りしょうばん(イスンマン))ライン」を国際法に反して一方的に設定し、そのライン内に竹島を取り込みました。
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この男が初代大韓民国大統領李承晩です。


韓国による日本漁船の拿捕
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その後、ライン内に出漁した日本漁船が韓国側に拿捕される事件が相次ぎ、日本側には死傷者も出ました。1953(昭和28)年7月には、竹島周辺で海上保安庁の巡視船が韓国官憲によって銃撃されました。
韓国は現在に至るまで、竹島に警備隊員などを常駐させ、宿舎や監視所、灯台、接岸施設等を設置するなど、不法占拠を続けています。(これを侵略と言わずしてなんというのでしょうか)

昭和27(1952)年1月18日、韓国による李承晩ラインが不当に設置され、2月11日には日本船が韓国側から銃撃され船員1人が死亡、3月2日には最初の拿捕船が出た。『日韓漁業対策運動史』によると日本の拿捕漁船328隻、抑留船員3,929人、死傷者44人が李ラインによる日本側の被害総数である。昭和40(1965)年日韓漁業協定により李承晩ラインが消滅するが、同年11月6日付け「島根新聞」は、李承晩ラインによる島根県関係の被害は抑留121人、捕獲された船11隻と記している。

法と対話による解決を目指して
韓国による竹島の占拠は国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、このような行為に基づいて行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。このため、日本は、これらの措置が行われる度に韓国に対して厳重な抗議を重ねるとともに、その撤回を求めてきています。日本は、1954(昭和29)年以降3回にわたって竹島の領有権に関する問題を国際司法裁判所に付託することを提案していますが、韓国はこれを全て拒否しています。
我が国にとって、韓国は最も重要な隣国です。真の友好関係を構築するためにも、国際法に基づいて、冷静かつ平和的に竹島問題を解決することを日本は望んでいます。

日本の根拠
日本における竹島の認知
1.
現在の竹島は,我が国ではかつて「松島」と呼ばれ,逆に鬱陵島が「竹島」や「磯竹島」と呼ばれていました【図1】。竹島や鬱陵島の名称については,ヨーロッパの探検家等による鬱陵島の測位の誤りにより一時的な混乱があったものの,我が国が「竹島」と「松島」の存在を古くから承知していたことは各種の地図や文献からも確認できます。例えば,経緯線を投影した刊行日本図として最も代表的な長久保赤水(ながくぼせきすい)の「改正日本輿地路程(よちろてい)全図」(1779年初版)のほか,鬱陵島と竹島を朝鮮半島と隠岐諸島との間に的確に記載している地図は多数存在します。
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「改正日本輿地路程全図」(1846年)(明治大学図書館所蔵)
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「竹嶋之図」(1724年頃)(鳥取県立博物館所蔵)

1787年,フランスの航海家ラ・ペルーズが鬱陵島に至り,これを「ダジュレー(Dagelet)島」と命名しました。続いて,1789年には,イギリスの探検家コルネットも鬱陵島を「発見」しましたが,彼はこの島を「アルゴノート(Argonaut)島」と名付けました。しかし,ラ・ペルーズとコルネットが測定した鬱陵島の経緯度にはズレがあったことから,その後にヨーロッパで作成された地図には,鬱陵島があたかも別の2島であるかのように記載されることとなりました【図2】。
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長崎出島の医師シーボルトは,欧州で「日本図」(1840年)を刊行しました。彼は,隠岐島と朝鮮半島の間には西から「竹島」(鬱陵島の江戸時代の呼称),「松島」(現在の竹島の江戸時代の呼称)という2つの島があることを日本の諸文献や地図により知っていました。その一方,ヨーロッパの地図には,西から「アルゴノート島」「ダジュレー島」という2つの名称が並んでいることも知っていました。このため,彼の地図では「アルゴノート島」が「タカシマ」,「ダジュレー島」が「マツシマ」と記載されることになりました【図2】。これにより,それまで一貫して「竹島」又は「磯竹島」と呼ばれてきた鬱陵島が,「松島」とも呼ばれる混乱を招くこととなりました。

このように,我が国内では,古来の「竹島」,「松島」に関する知識と,その後に欧米から伝えられた島名が混在していましたが,その最中に「松島」を望見したとする日本人が,同島の開拓を政府に願い出ました。政府は,島名の関係を明らかにするため1880(明治13)年に現地調査を行い,同請願で「松島」と称されている島が鬱陵島であることを確認しました。
5.
以上の経緯を踏まえ,鬱陵島は「松島」と称されることとなったため,現在の竹島の名称をいかにするかが問題となりました。このため,政府は島根県の意見も聴取しつつ,1905(明治38)年,これまでの名称を入れ替える形で現在の竹島を正式に「竹島」と命名しました。

こんな資料もあります。
我が国がいまだ占領下にあった1951(昭和26)年7月,連合国総司令部は,連合国総司令部覚書(SCAPIN)第2160号をもって,竹島を米軍の爆撃訓練区域として指定しました。
2.
サンフランシスコ平和条約発効直後の1952(昭和27)年7月,米軍が引き続き竹島を訓練区域として使用することを希望したことを受け,日米行政協定(注:旧日米安保条約に基づく取極。現在の「日米地位協定」に引き継がれる。)に基づき,同協定の実施に関する日米間の協議機関として設立された合同委員会は,在日米軍の使用する爆撃訓練区域の1つとして竹島を指定するとともに,外務省はその旨を告示しました。
3.
しかし,竹島周辺海域におけるあしかの捕獲,あわびやわかめの採取を望む地元からの強い要請があること,また,米軍も同年冬から竹島の爆撃訓練区域としての使用を中止していたことから,1953(昭和28)年3月の合同委員会において,同島を爆撃訓練区域から削除することが決定されました。
4.
日米行政協定によれば,合同委員会は「日本国内の施設又は区域を決定する協議機関として任務を行う」とされていました。したがって,竹島が合同委員会で協議され,かつ,在日米軍の使用する区域として決定したことは,とりも直さず竹島が日本の領土であることを示しています。
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韓国政府の認識(ばかげていますが、相手の主張も聞くのは議論の前提として当然です。)
ヴォルテールもこういっています。(フランスの哲学者であり、作家、文学者、歴史家である)
borute-ru

私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る
韓国における竹島の認知

こんなふざけた動画まで制作しています。 論理が破たんしているのにね。

韓国大使館には、ご丁寧にこんなサイトがあります。
http://dokdo.mofa.go.kr/jp/dokdo/government_position.jsp

1.
韓国が古くから竹島を認識していたという主張には根拠はありません。例えば,韓国側は,朝鮮の古文献『三国史記』(1145年),『世宗(せそう)実録地理誌』(1454年),『新増東国輿地勝覧(しんぞうとうごくよちしょうらん)』(1531年),『東国(とうごく)文献備考』(1770年),『萬機(ばんき)要覧』(1808年),『増補(ぞうほ)文献備考』(1908年)などの記述をもとに,「鬱陵島」と「于山島」という2つの島を古くから認知していたのであり,その「于山島」こそ,現在の竹島であると主張しています。
2.
しかし,『三国史記』には,于山国であった鬱陵島が512年に新羅に帰属したとの記述はありますが,「于山島」に関する記述はありません。また,朝鮮の他の古文献中にある「于山島」の記述には,その島には多数の人々が住み,大きな竹を産する等,竹島の実状に見合わないものがあり,むしろ,鬱陵島を想起させるものとなっています。
3.
また,韓国側は,『東国文献備考』,『増補文献備考』,『萬機要覧』に『輿地志(よちし)』を引用して,「于山島は日本のいう松島である」と記述されており于山島が独島(竹島の韓国名)であることが明確だと主張しています。これに対し,『輿地志』の本来の記述は,于山島と鬱陵島を同一の島としており,『東国文献備考』等の記述は『輿地志』から直接,正しく引用されたものではないと批判する研究もあります。その研究は,『東国文献備考』等の記述は,安龍福という人物の信憑性(しんぴょうせい)の低い供述を無批判に取り入れた別の文献(『彊界考(きょうかいこう)』,1756年)を基にしていると指摘しています。

なお,『新増東国輿地勝覧』に添付された地図には,鬱陵島と「于山島」が別個の2つの島として描かれていますが,もし,韓国側が主張するように「于山島」が竹島を示すのであれば,この島は,鬱陵島の東方に,鬱陵島よりもはるかに小さな島として描かれるはずです。しかし,この地図における「于山島」は,鬱陵島とほぼ同じ大きさで描かれ,さらには朝鮮半島と鬱陵島の間(鬱陵島の西側)に位置している等,全く実在しない島であることがわかります。img05.gif
「新増東国輿地勝覧 八道総図」(写し)(国立公文書館所蔵)

朝鮮の古文献『三国史記』(1145年)の論理の破綻

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実際に「三國史記」に書かれたものを見ましょう。 次に挙げるのは、韓国人が、独島は6世紀以来韓国の領土であることを立証すると主張する、三國史記の巻四 新羅本記です。
十三年 夏六月 于山國歸服 歲以土宜爲貢 于山國在溟州正東海島 或名鬱陵島 地方一百里 恃嶮不服 伊飡 異斯夫 爲何瑟羅州 軍主 謂 “于山人愚悍 難以威來 可以計服” 乃多造木偶師子 分載戰船 抵 其國海岸 誑告曰 “汝若不服 則放此猛獸踏殺之” 國人恐懼 則降

13年目(西暦512年)の夏の5月、于山国は降伏し、年に一度土地の名産を朝貢するようになった。于山国は溟州の真東の島であり欝陵島ともいう。面積は百里で、地形は険しく服従させるのは難しいという。

将軍の異斯夫が何瑟羅州の軍主になり、こう言った。「于山国の民は無知で野蛮で、軍事力で服従させることは困難なので、一計を案じよう。」そこで、彼は木製の猛獣の模型を作製して軍艦に分載し、「服従しなければ猛獣を放って踏み殺させてしまうぞ」と言って騙したところ、その国の人々は怯えてすぐに降伏した。

上記の訳から分かるように、独島/竹島(Liancourt Rocks)については、いかなる名称でも登場しません。単に于山国は溟州(現在の朝鮮東岸の江陵市)の真東の島であり欝陵島ともいう、ということだけです。このことは「三國史記」が独島/竹島(Liancourt Rocks)領有の証拠であると言う韓国側の主張を、否定するものです。

韓国の国立図書館所蔵の、1600年代の地図帳「支那朝鮮古地圖」の中にある。「新羅高勾麗百濟肇造區域之圖」
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韓国の国立図書館所蔵の、1600年代の地図帳「支那朝鮮古地圖」の中にあるもので、「新羅高勾麗百濟肇造區域之圖」と言う地図です。この地図では、朝鮮半島の東沖に、”羽山國 今 鬱陵島”と書かれた独立した一つの島が浮かんでいます。この地図は、于山国が二島ではなく一島であると考えられていた更なる証拠と言えます。

その後李朝朝鮮の時代になって、彼等は鬱陵島の約2.2km東沖に浮かぶ竹嶼(韓国名竹島)を発見しますが、鬱陵島東南沖92kmにある独島/竹島(Liancourt Rocks)が于山国、鬱陵島、さらには韓国・朝鮮の一部であると考えられていた証拠は全くありません。

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