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06 2017

宮崎観光③ 平和台公園(八紘の塔)を見に行った。 八紘一宇とはなんぞや

なかなか、記事が書けない日々が続いています。(明日には台湾にいくので、またしばらく書けませんね。)

しかし、書きたい記事はたまるばかり。。。。。。

さて、宮崎に行ったとき、こんな大きな建造物がある公園があることを知りました。

現平和台公園です。昔は平和台公園という名前ではありませんでした。

1940年に建てられた物です。時代が時代だけに、GHQから撤去されかけましたが、再建されています。

そして、八紘一宇という言葉も一人歩きしているのが、悲しいですね。(本来は意味が違うのですが)

議論はさておき、この場所は見晴らしも最高ですし、何より大きさに驚きます。

意味や経緯は、長いので見たい人はどうぞ。

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平和台公園の略歴
1940年の神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝うにあたり、国は紀元二千六百年奉祝事業として宮崎神宮の拡大整備事業を行うことになった。
そして宮崎県当局も「紀元二千六百年宮崎県奉祝会」を立ち上げ、県を挙げて奉祝することになった。当時の知事相川勝六(奉祝会会長も兼任)は、「八紘一宇の精神を体現した日本一の塔」を作る事を提案し、実行に移すことになった。
相川知事は大阪毎日新聞・東京日日新聞(両紙とも毎日新聞の前身)に頼み、この塔を設計する彫刻家を公募した。そして名乗りを上げたのが日名子実三である。日名子は「報酬は一文もいらぬから是非自分にやらせて下さい」と申し出て、相川知事も日名子の熱心さと彫刻家としての名声から、この申し出を了承することになった。相川知事は条件として、「何ヶ月間か宮崎県内を巡り、その風物に触れて構想を練ってほしい」と注文を出し、日名子もこれを受け入れた。そして宮崎神宮に参拝した際に、日名子は御幣を見てインスピレーションを感じ取って、これに盾を組み合わせたデザインにしたという。
場所について、相川知事は当初神武天皇縁の地である「皇宮屋(こぐや)」を考えていたが、県の幹部より皇宮屋の北部の台地を勧められ、実際に現地を訪れた結果、この地に建造することになった。
1939年(昭和14年)年3月、日名子は模型を完成させ、相川知事の了解を得た。5月20日から工事開始。延べ約6万人の労働により翌1940年(昭和15年)11月25日に完成し、高松宮宣仁親王を迎えて落成式典が行われた。

戦後の1946年(昭和21年)にGHQの命により、「八紘一宇」の碑文と武人の象徴であった荒御魂(あらみたま)像が撤去された。塔内部の奉安庫に収納されていた秩父宮雍仁親王の揮毫「八紘一宇」も撤去・処分の対象となったが、宮崎県職員によって密かに運び出され、宮崎神宮の倉庫内に隠された。
1957年(昭和32年)、「平和の塔」に改称。一時はロッククライミングの練習場代わりに使われるほど荒廃した。
1962年(昭和37年)に荒御魂像が、1965年(昭和40年)に「八紘一宇」の文字が復元された。これらの復元を主唱した県観光協会会長の岩切章太郎に革新政党や労働組合が抗議に訪れたが、「日名子の芸術作品だから元に戻すのが当然」と追い返したという。

八紘一宇の意味
『日本書紀』神武伝承がルーツ

 漢和辞典によれば、「八紘」は「天地の八方の隅」の意で、転じて「全世界」を意味し、「宇」は「軒」または「家」を指す語で、「八紘一宇」は「世界を一つの家にする」というのが原義である。

 三原議員はこれを「日本が建国以来、大切にしてきた価値観である」と述べ、この理念の下に「世界が一つの家族のようにむつみあい、助け合えるような経済、税の仕組みを運用していくことを確認する政治的合意文書のようなものを、安倍晋三首相がイニシアチブを取り、世界中に提案していくべきだ」と主張したのだが、この発言が一部の報道やネットで問題視されたことが発端となった。

 周知のように、もともと「八紘一宇」は『日本書紀』に記載されている第1代神武天皇の即位建都の詔の一節「八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)むこと、亦(また)可(よ)からずや」(原漢文)に由来する。したがって、本来は「八紘為宇」という四字熟語だったのだが、近代における在家仏教運動の先駆的唱導者として知られ、日蓮主義に立つ宗教団体・国柱会の創設者である田中智学が、これを基にしてより語感のよい「八紘一宇」という標語を工夫したことから広く世間に知られるようになった。

産経新聞より

日本書紀の元々の記述によれば「八紘為宇」である。「八紘一宇」というのはその後、戦前の大正期に日蓮主義者の田中智學が国体研究に際して使用し、縮約した語である。ただし現代では、「為宇」の文字が難解であるため、「八紘一宇」の表記が一般的となっており、神武天皇の神勅について言及する際にも「一宇」が用いられる例がしばしば存在する[4]。 また「八紘」という表現は古代中国でしばしば用いられた慣用句を元としている。

この言葉が日本でよく知られるようになったのは上記に参照した『日本書紀』巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」(いわゆる橿原奠都の詔)[2]からの引用である。ここで「八紘」とは、

九州外有八澤、方千里。八澤之外、有八紘、亦方千里、蓋八索也。一六合而光宅者、並有天下而一家也。
— 『淮南子』地形訓

「……湯又問:『物有巨細乎?有修短乎?有同異乎?』革曰:『渤海之東不知幾億萬裡、有大壑焉、實惟無底之穀、其下無底、名曰歸墟。八紘九野之水、天漢之流、莫不注之、而無增無減焉。』……」
— 『列子』湯問

に見ることができる。すなわち「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語として解釈されている。また、「一宇」は「一つ」の「家の屋根」を意味している。このような表現は中国の正史後漢書・晋書にもあり、例えば晋書では晋の武帝が司馬炎が三国志でも有名な呉・蜀を滅ぼし中国全土を統一したことを「八紘同軌」[5]といっている。
津田左右吉の説によれば、日本書紀は「文選に見えている王延寿の魯霊光殿賦のうちの辞句をとってそれを少しくいいかえたもの」といい、元来は「(大和地方は服属したからさしあたって橿原に皇居を設けることにするが大和以外の地方はまだ平定しないから)日本の全土を統一してから後に、あらためて壮麗な都を開き、宮殿を作ろう」というだけの意味だという[6]。
それ以後、「八紘」の語は世界と同義語として若干使われた形跡がある。たとえば箕作阮甫が1851年(嘉永4年)に著した『八紘通誌』は、世界地理の解説書である。しかし大正期までこの言葉は文人が時々用いる雅語どまりで、それほど用例が豊富ではなかった。

戦後、1945年12月22日にGHQから発令されたいわゆる「神道指令」により、「八紘一宇」の用語の使用は軍国主義、過激な国家主義と切り離して使用できない言葉として「大東亜戦争」などとともに公文書での使用を禁じられた。
一 日本新内閣ニ対シ教育ニ関スル占領ノ目的及政策ヲ充分ニ理解セシムル連合国軍最高司令部ハ茲ニ左ノ指令ヲ発スル
A 教育内容ハ左ノ政策ニ基キ批判的ニ検討、改訂、管理セラルベキコト
(1)軍国主義的及び極端ナル国家主義的イデオロギーノ普及ヲ禁止スルコト、軍事教育ノ学科及ビ教練ハ凡テ廃止スルコト
(2)議会政治、国際平和、個人ノ権威ノ思想及集会、言論、信教ノ自由ノ如キ基本的人権ノ思想ニ合致スル諸概念ノ教授及実践の確立ヲ奨励スルコト」

— 日本教育制度ニ対スル管理政策(昭和二十年十月二十二日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)

この言葉自体は認められています。(道徳として)
1946年(昭和21年)より開廷された極東国際軍事裁判において、検察側意見では「八紘一宇の伝統的文意は道徳であるが、…一九三〇年に先立つ十年の間…これに続く幾年もの間、軍事侵略の諸手段は、八紘一宇と皇道の名のもとに、くりかえしくりかえし唱道され、これら二つの理念は、遂には武力による世界支配の象徴となった」としたが[19]、東条英機の弁護人・清瀬一郎は『秘録・東京裁判』のなかで「八紘一宇は日本の固有の道徳であり、侵略思想ではない」との被告弁護側主張が判決で認定されたとしている。
田中智学とは誰?
田中智学

多田玄龍・凛子の三男として江戸で生まれ、10歳で日蓮宗の宗門に入り智學と称した。1872年(明治5年)から田中姓を称している。その後、宗学に疑問を持って還俗し、宗門改革を目指して1880年(明治13年)に横浜で蓮華会を設立。4年後の1884年(明治17年)に活動拠点を東京へ移し立正安国会と改称、1914年(大正3年)には諸団体を統合して国柱会を結成した。日蓮主義運動を展開し、日本国体学を創始、推進し、高山樗牛・姉崎正治らの支持を得た。1923年(大正12年)11月3日、日蓮主義と国体主義による社会運動を行うことを目的として立憲養正會を創設し総裁となった。

ここからが大切です。 これがこの言葉が造語であり。この方によって作られた言葉であると言うことです。

八紘一宇とは日本建国の主義である「道義的世界統一」を意味する。 大正2年3月11日に機関紙、国柱新聞「神武天皇の建国」にて言及。
この言葉の典拠となったのは『日本書紀』巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」にある。
「上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」(上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。)   日本書紀巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」
であるが、智學は「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に初めて着眼し、「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であり、その後の結果が「八紘一宇」であると、「掩八紘而為宇」から造語した。
八紘一宇という言葉は、戦後、軍国主義のスローガンであったかのように言われているが、造語した智學は1922年(大正11年)出版の『日本国体の研究』に以下の記述をしている(智學は他に戦争を批判し死刑廃止も訴えている)。

これがこの方の言いたいことです。(八紘一宇が軍国的主義の言葉ではありません。)
人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である。
また、日蓮主義者としての智學像が強い為、八紘一宇は「日蓮を中心とした世界統一」を意味して造語された、との解説が流布されているが、それは誤りである。 もちろん智學の国体観の根底には、日蓮主義があり、「日蓮上人によって、日本国体の因縁来歴も内容も始末も、すっかり解った」[1]とまで述べているが、それは仏法・覚道、即ち法華経の一念三千の法門、並びに日蓮の三大秘法の法門によって日本国の理義が明らかになり解決を得た。という事であり、それに伴う王法・治道の研究によって、神武天皇建国の宣言から明らかにしたのが、八紘一宇である。
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平和台公園 宮崎県 八紘一宇

- 1 Comments

がちょー  

こんばんわ~♬

平和台公園、八紘の塔の記事読みました。
なるほど、いろいろ勉強になりましたよv-290

台湾も楽しんできてくださいね^^

2017/02/06 (Mon) 19:31 | EDIT | REPLY |   

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